1882明治15年
辻本福松、
足袋装束商を創業
辻本福松、当年21歳。
足袋装束商を創業。
商標はその名にちなんで「丸福」とした。
しかし、世は明治維新後の未曾有の大不況。
福松は早くも経営の危機に陥る。
妻女まつとともに家財を売り資本にし、
福松は足袋に生き足袋に死ぬ決心をする。
加えて雲斎屋「南幸」が福松の人柄に共感し、
快く原布を供給。
これらの助けにより福松は窮地を免れる。
1895明治28年
日本初の
足袋縫い鉄輪ミシン
それまでの足袋はすべて手縫い。
時間も人手もかかるため、足袋の値段も高価でした。
福松は「安くて良い品は作れぬものか」と思案を重ね、
足袋用ミシン開発研究を開始しました。
そして、苦心を重ね完成したのが、
日本初の足袋縫い鉄輪ミシンです。
機械に対する興味と関心、そして深い知識が
わが国初の足袋縫いミシン誕生の
鍵となりました。
1895明治28年
手縫いにまさる機械縫いの足袋
日本発の足袋縫いミシンの特許権を得た明治28年には
「手縫いにまさる機械縫いの足袋」という、
新聞1ページ大の看板を市内に掲げました。
広告活動は大正時代に入ってから活性化し、画家北野恒富に依頼しました。
このポスターは常富得意の美人画で、背景に書かれている工場は
「将来このくらいの大工場を造りたい」という理想を表現したものです。
1897明治30年
足袋業界初の
パッケージ販売
丸福の足袋が都市へ進出するために、
新しい販売方法を考えなければなりませんでした。
そこで、品質の向上はもちろん、消費者の心理を考え
“売り物に花を飾って購買意欲をそそる”ことを
念頭において販売作戦の転換をはかりました。
むき出しだった足袋にレッテルを付け
“磯巻”という帯紙で巻き袋に入れました。
明治時代に、足袋に立派なパッケージをつけて
販売したのは当社が最初で、
足袋業界では大革命といえたのです。
そして福助足袋を服飾品の水準にまで
引き上げることに成功しました。
1900明治33年
社名を
福助と一新
息子豊三郎は、伊勢詣での際に
伊勢神宮近くの古道具屋で
この福助人形に出会い買い求めました。
その人形はかみしもを着て正座し、
手に扇子ををひろげ持った姿をしていました。
福松親子はこの人形に、
人間の徳をあらわす仁・義・礼・智・信のイメージを加え、
頭を低くし、手をついて
礼を尽くすというポーズの福助人形を、
新たな商標として明治33年7月18日、登録。
社名を福助と一新しより事業に打ち込んだのでした。
1912明治45年
足袋なし素足の人々へ
販路拡張を狙う
福松の死去後、豊三郎は福松の意思を継ぎ
販路拡大を志し、東京を目指します。
しかし、東京人は江戸っ子の誇りを持っており、
また富豪・名家の間では
「足袋は手縫いであつらえるもの」という考え方が主流で、
苦戦を強いられます。
豊三郎は「安くて実質的な足袋を供給すれば、
数年、数十年後には必ず売れる。
足袋なし素足の8割の人々こそが、
福助足袋の進出するところだ」と考え、
販路拡張の姿勢を貫き続けました。
1919大正8年
永坂石埭氏に依頼し、
CIロゴが誕生
福助マークは福松が商標登録を行った一番古い形から、
その時代を反映し形も進化していきました。
大正時代にはより柔和で落ち着きのある瞳となり、
裃もあられ小紋に「福」の紋が入るようになりました。
一方、当時はまだ福助足袋の会社名の書体は
一定してはいませんでした。
そこで、永坂石埭氏に依頼し、統一書体を作成。
今で言うCIを導入しました。
筆勢鋭く、格調高い初めてのCIロゴが誕生しました。
1924大正13年
展覧会を開催
宣伝広告の一貫で当社が力を入れたのが、
各種の展覧会の開催でした。
それは「足に関する展覧会(足展)」と
「福助さん展覧会(福展)」です。
足展は学究的・趣味的に足を追究したものです。
また、福展は全国各地の福助人形や文献、
名家秘蔵の人形などを展示し、
好評のためその後も全国各地で開催されました。
右:上野松坂屋の「福助さん展覧会」ポスター。
左:「足展」。東京雷門の仁王大わらじも展示。
1924大正13年
500余点ものめずらしい展示物
「足に関する展覧会」の模様。
第1回の開催は大正13年11月、大阪堺筋備後町の白木屋で開催。
足袋や履物の変遷や、各国のはき物、芝居用の足袋と下駄、
仏足石の拓本、浮世絵に描かれた足など、実物に絵画にと
興味深いものがたくさんありました。
また、生理衛生資料からみた足、名士の足袋の文数、
職業別の歩行調査結果や動物の足跡等、
めずらしいものが500余点も集まりました。
1928昭和3年
全国に広告塔を建設
全国各地にさまざまな
福助の広告灯が建設されました。
大正12年には、博多中洲の橋詰に
大広告灯が立てられました。
大阪に福助初の電灯広告灯が完成。
五彩の光がはなばなしく点滅し、道頓堀を彩りました。
高さは30メートル。
特徴的なのは、ちょうど通行人の目の高さに、
直径3.4メートルのスイス製大時計を据え付けました。
中州では灯台代わりになり、
修学旅行の小学生達が集まる姿もちらほら…。
1929昭和4年
海外に工場を建設
中国大陸に福助工場開設。
昭和4年中国をはじめ、
17年ジャワ島タンジョンプリオク港に上陸。
昭和20年に
終戦の放送を聞くと同時に工場閉鎖。
無事に引き揚げました。
1932昭和7年
「誠心こめて」を
モットーに
和装から洋装へ変わりつつあった時代です。
こうした時代の流れを早くからとらえ、
靴下部を新設しました。
「足をまもる精神」から、足袋と同時に
靴下もつくっていこうという考えです。
「誠心(まごころ)こめて」をモットーに、
品質のよい製品づくりに努力を重ねました。
そして昭和九年には本社に靴下工場を建設し、
さらなる技術開発に努力しました。
製造面での苦労とは別に、靴下独特の多品種の商品企画、
流行の先取りなど、多くの困難を乗り越え、
昭和十二年には全国消費量の約10%となり、
早くも業界のトップに立つことができました。
1936昭和11年
婦人用絹ストッキング
完成
昭和11年に、婦人用絹ストッキング、
絹ニーレングス靴下が完成しました。
最新鋭の機械によって製造された
婦人用ストッキングは、
生地のよさ、色の美しさ、はき心地の良さ、
三拍子そろって大好評でした。
1947昭和22年
天皇陛下をお迎え
当社工場へ天皇陛下をお迎え。
「重要産業であるから、
今後いっそう努力するよう」との
お言葉を賜りました。
天皇陛下も福助人形には
大変ご興味を持たれていました。
1950昭和25年
いち早い
アドバルーン広告展開
各地で福助さんが空からごあいさつ。
その頃流行歌であった「ああそれなのに」の中にも
「空にゃ今日もアドバルーン」などと歌われ、
アドバルーンは都会の風物詩的存在でした。
福助はいち早くアドバルーンを
広告に取り入れました。
1950昭和25年
電波を使った宣伝広告で
全国に定着
業界で最も早かった電波宣伝。
ラジオコマーシャル、テレビコマーシャル共にいち早く取り入れ、
CMソングでイメージ定着をはかり全国の人達に愛唱されました。
写真は日本テレビ系列で提供した
「素人のどくらべ」に出場したフランク永井さんです。
1956昭和31年
足型立体測定器
足袋スコープ
「足を入れるとサイズがピタリ」をキャッチフレーズに、
「足型立体測定器足袋スコープ」を作りました。
写真は測定をする元横綱若乃花関です。
底丈・幅・甲の高さ・足首の太さなどが
約1分間で測定!
そのパターンを記入したカードをお渡しし、
次回からの購入に役立てるようにしていました。
1958昭和33年
ミシン業界初の
グッドデザイン
明治の初め、欧米より伝えられたミシンを基に、
国産第一号の足袋つま先縫いミシンをはじめ、
専用ミシンを次々と開発しました。
そして研究を重ね家庭用ミシン“福助ミシン”を製造し、
三千余台を売り出し、やがて福助五大製品のひとつとなり、
社業の発展に大いに貢献しました。
その後も新鋭機械を導入、技術の向上をはかり、
機能・デザインに構想を練り、
簡単な操作で思いのままにジグザグ模様が縫え、
使いやすさと機能の良さは抜群のミシンを完成させました。
このミシンが通産省から
ミシン業界初のグッドデザインマーク(Gマーク)に選定され、
“デザインと機能美の完全な融合”を高く評価されました。
1964昭和39年
「福助株式会社」に
社名変更
総合衣料二次製品メーカーとなった今、
「福助足袋株式会社」では
ふさわしくないとの判断により
「福助株式会社」に社名変更を致しました。
右の写真は「足袋からトップフリー」という
キャッチコピーで、
社名変更した際の広告です。
1982昭和57年
創業100周年
昭和57年1月、創業100周年を迎えました。
1992平成4年
高野山に
慰霊碑を建立
明治15年の創業以来、
長い歴史の間にご支援を賜ったお取引先、
ご協力工場、社業発展のために精励された物故役員、
社員諸氏といった多くの方々に少しでも報い、
ご供養したいという思いから、平成4年11月、
福助創業110周年を機に『感謝の碑』として
企業慰霊碑を建立しました。
“福助”は当社の商標であり象徴であることから、
富士山を模した土台に福助像が鎮座し、
その福助像を京都の功名な仏師であられる
松久宗淋先生に制作いただきました。
正面の台には、真心と情熱を込め、
また創業当時の屋号である
福の文字を入れております。